高度に発達した云々
「高度に発達した科学は魔法と区別が付かない」になぞらえて、
「高度に発達した偽善は善と区別が付かない」
「高度に計算された八方美人は八面玲瓏と区別が付かない」
とか思いついたけど、ぐぐってみたらそんな言葉遊びは千年前に通り過ぎている予感でした。
「高度に練られた勝利は相手に敗北を気付かせない」
「高度に張り巡らされた嘘は事実と見分けが付かない」
はフォーマットからズレているような気がするのでいまいち。
なんでこんなことを考え始めたかと言うと、『仕事では「過程」と「結果」のどちらが大事か』という命題について『当然、過程より結果でしょう』という結論が自分の中ではあるんですけども、それだけだと多少語弊があるという感じでして。
10年前にも書いた命題なんだけども、なぜか再考してみようかという気に。
とにもかくにも自分は「結果重視」だと信じて疑わないのですが、良くある反論に「過程がどんなに酷くても、結果さえ良ければいいのか?」などがありますが、過程がどんなに酷かろうが、他人に迷惑かけようが、恨まれようが、結果を残せればいいと思うのですよ。
ただですね、そこでいう「結果」が生涯続く物でなければダメだと思うんです。
過程が酷くて恨まれたり憎まれたりしたツケが、後々になって響いてくるのであれば、それは全く結果を出せていないことに等しいのです。
例えば脱サラしてラーメン屋を始めた人がいたとして、その人がどんなに頑張って毎日寝ずにレシピ研究して接客も完璧でいろんな人に好かれ、みんなに熱意を認められたとしても、作るラーメンがまずけりゃダメだと思うのです。
これは「過程が大事で結果が二の次」になっている例で、結果重視の自分としてはまったくのNG。
じゃあ、結果を重視したとして、接客は最悪でレシピも他店から盗んだもの…だけど作るラーメンはめっさ旨い。
そんな人がいたとして、それはどうなんだろうって話。
そのお店が一生人気店としてやっていけるなら、いいんじゃないのかなって思うけど、「過程」がそこまで酷いとどこかで失敗するよなあと思うのです。これでは結果を重視したことにはならない。
つまりですね、「高度に重視された結果は過程を重視する」というような事を言いたかったんですが、なんか違う気がします。
ラーメンラーメン言うのでラーメンが食べたくなりました。
それではまた10年後に会いましょう。