Sinful Blue

高度に発達した云々

Filed under: 戯れ言をちょっと — よしけん。 at 5:43 pm on 月曜日, 3月 30, 2009

「高度に発達した科学は魔法と区別が付かない」になぞらえて、
「高度に発達した偽善は善と区別が付かない」
「高度に計算された八方美人は八面玲瓏と区別が付かない」
とか思いついたけど、ぐぐってみたらそんな言葉遊びは千年前に通り過ぎている予感でした。

「高度に練られた勝利は相手に敗北を気付かせない」
「高度に張り巡らされた嘘は事実と見分けが付かない」
はフォーマットからズレているような気がするのでいまいち。

なんでこんなことを考え始めたかと言うと、『仕事では「過程」と「結果」のどちらが大事か』という命題について『当然、過程より結果でしょう』という結論が自分の中ではあるんですけども、それだけだと多少語弊があるという感じでして。
10年前にも書いた命題なんだけども、なぜか再考してみようかという気に。

とにもかくにも自分は「結果重視」だと信じて疑わないのですが、良くある反論に「過程がどんなに酷くても、結果さえ良ければいいのか?」などがありますが、過程がどんなに酷かろうが、他人に迷惑かけようが、恨まれようが、結果を残せればいいと思うのですよ。
ただですね、そこでいう「結果」が生涯続く物でなければダメだと思うんです。
過程が酷くて恨まれたり憎まれたりしたツケが、後々になって響いてくるのであれば、それは全く結果を出せていないことに等しいのです。

例えば脱サラしてラーメン屋を始めた人がいたとして、その人がどんなに頑張って毎日寝ずにレシピ研究して接客も完璧でいろんな人に好かれ、みんなに熱意を認められたとしても、作るラーメンがまずけりゃダメだと思うのです。
これは「過程が大事で結果が二の次」になっている例で、結果重視の自分としてはまったくのNG。

じゃあ、結果を重視したとして、接客は最悪でレシピも他店から盗んだもの…だけど作るラーメンはめっさ旨い。
そんな人がいたとして、それはどうなんだろうって話。
そのお店が一生人気店としてやっていけるなら、いいんじゃないのかなって思うけど、「過程」がそこまで酷いとどこかで失敗するよなあと思うのです。これでは結果を重視したことにはならない。

つまりですね、「高度に重視された結果は過程を重視する」というような事を言いたかったんですが、なんか違う気がします。
ラーメンラーメン言うのでラーメンが食べたくなりました。
それではまた10年後に会いましょう。

「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」を読んでのメモ。

Filed under: 戯れ言をちょっと,言葉 — よしけん。 at 11:23 am on 木曜日, 3月 12, 2009

読んで感じることがあったので、はやいうちにメモ。

元ネタ:
村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」 (活字中毒R。)

http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090311


抜粋。

一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。

連想ゲームで得たもの。

【強いもの】
・言葉にできるもの、しやすいもの
・わかりやすいもの
・単純な論理、ルール
・影響を受けにくい論理、ルール
・目的がわかりやすい論理、ルール
・平等を目指す環境内での「弱い人」
・シンプルな正しさ

【弱いもの】
・言葉にできないもの、しにくいもの
・わかりにくいもの
・複雑な論理、ルール
・影響を受けやすい論理、ルール
・目的がわかりにくい論理、ルール
・平等を目指す環境内での「強い人」
・やむを得ない例外、気分的な例外